初めて「門」を読んだのは、中学生の時。このフレーズにとても衝撃を受けた。けれども、その理由をうまく言語化することはできなかった。
人は皆、主導的に生まれた訳ではない。 I was born、生は受動的に与えられたものである。そんなことを高校時代の友人とワインを飲みながら語った夜。1年前の冬。その夜の帰り道、一人考えながら、受動的に生まれてきたからこそ、自分の存在根拠なんてなく、自分が自分であることに意味なんてなく、自分らしくの「らしく」なんてどこにもないんだということに、気づいてしまった。
「門」の主人公宗介は私だなと、思う。この部分は、それでも自分の存在根拠はどこにあるのか探す私が、いくら探してもその答えを探せないことをうまく表している。つまり、門を通ること(答えを見つけること)は決してできない。しかし、門(問い)は目の前に依然と、大きく、ある。
同時に、「門」に登場する禅宗というものに惹かれていった。この小説では禅宗の中でも臨済宗を指すが、仏教を勉強していくうちに曹洞宗に惹かれた。そこで見つけたのが南直哉という曹洞宗の禅僧の方が書いた、本。南さんはいう。ブッタの教えを間にうける必要はない。ただ、人生を生きる作法として使えることは確かだと。
だから、曹洞宗の大本山、永平寺に行ってきた。道元禅師が開いたとされる古くからの叡智が結集されたその場所で、その空気を吸いたかった。
つくづく思う。この世の中は、人間が生きやすいようにそれぞれ勝手に意味づけをしているだけの通俗的価値観で固まっていると。この俗世界と離れた深山幽谷の地で、厳しい修行に耐えること。彼らの佇まいから、迫ってくる何かを感じた。
仏門に入る勇気はまだないし、彼らみたいに徹底的な精神活動をすることもできないが、それでも、この問いが出ない(門は通れない)という苦しみから、一時も目を離さないようにしよう。
この空っぽの世の中で、生きいていくことに、飽きないために。
そんなことを考えさせられた、永平寺。ドンちゃんと行くことができて本当に良かった。ちなみに、永平寺は朝一番に行くことを強くおすすめします。
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