海のような青空が広がったヨス、4月が幕を開けた。社宅の桜は花開き、地面ではタンポポが力強く咲き、視界に入る自然の彩りが一気に豊かになったのを強く感じる。本格的な春の始まり。これから緑が萌えてくる5月を迎えるまで、どんどんと華やいでいく自然の変化を、一つ一つ逃さずに過ごしたいなと思う。
ただ、春がまた来たということは、どこか寂しい。それは陽光が惜しみなく降り注ぐ中、海からの風が桜の花びらの間をすり抜けるその瞬間に、時間もまた一緒に流れていくのを感じるから。季節は何度も繰り返すことができるということを見せつけられるたび、人間の生は一回きりだということを意識させられる。
人間の儚さ、時間に逆らえない切なさ、このことに心を囚われてからずいぶん経った。ドンちゃんと出会い自分よりも大切にしたいものができてしまったことで、その思いはさらに加速してしまった。実際的な解決策は何もないけれど(おそらく死ぬ以外ない、でもその選択肢は今の私にはない)その思いを何かの形にすることで少しは昇華することができるのではということに気づいたのがここ数年のこと。
私にとって陶芸がその手段になっているが、最近もう一つ手段が増えた。それはそれらの思いを韻文で書くこと。チリ出身のパブロネルーダの詩を読みながら思いついたことだった。
パブロネルーダの詩を読むと幼い頃の自分がなぜか目の前に現れる。その日は小学校三年生の私が現れた。細くて、前髪が長く、ヘアバンドをしていた私。谷川俊太郎の詩集を買ってもらったばっかりで、その詩集に夢中だった。とうとう、縦線の青いノートに詩を書き始める。それが私にとって初めての詩作行為。「同じ地球にいるのに、どうして会えないのだろう」で始まる私の処女詩は、大好きな父親の仕事が忙しく平日になかなか会えないことへの寂しさと切なさにインスピレーションを受けて作ったということを思い出した。
種類は違えど、寂しさや切なさを詩作の衝動に使っていた私ならば、手段として、もしかして韻文と相性がいいのかもしれない。人間の儚さや切なさを乗り越えることはできなくとも、詩作することで癒されるかもしれない。陶芸と同じように。
という思いを抱え、始まった私の詩作活動。新たな手段としてライフワークに加わった。極めて私情的なので誰にも見せることないけれど、韓国語に訳してドンちゃんにだけは伝えて共有したい。時間に逆らえない切なさとか、人生はたった一回きりしかないという寂しさとか、それらは全てドンちゃんと永遠に一緒にいたい、生まれ変わってもまたドンちゃんと一緒にいたい、という気持ちが強いからこそ更に実感したものであるから。同時に一度でも同じ日はないから日々を大事にしたいという思いも生まれたから。
写真は花が開いたドンリップちゃん。不器用に咲いている姿は、春を感じ寂しさを抱える私と似ている気がする。詩作で少し癒されればいいな。
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