My everyday life from Yeosu/여수/麗水, Korea.


2015/07/17

幼少時代





読みたかったのは、エーリヒ・ケストナーの私がこどもだったころ。

4月末にドイツのドレスデンを訪れた際、激しい空襲を受けてもなお希望を捨てなかった街の雰囲気だけではなく、ドイツ歴代皇帝のマイセンの壁画だけではなく、美味しいソーセージをはしごしたことだけではなく、カフェテラスで飲んだビールの味だけではなく、絵本作家のケストナーの小さな博物館もとても記憶に残っていた。

そこは小さいけれど美しいお庭があって、ミュージアムだとは思えないぐらいこじんまりとした建物ででも入り口には、お馴染みのヴァルター・トリーアの絵があって、ここだよって教えてくれた。決して広くはないけれど、自分で引出しをあけて観覧するおもしろい展示方法で、わたしはそこでケストナーが絵本作家だけではなく、詩人や批評家としてとても幅広い活動をしたと知った。そこでもう一度、実家にあるケストナーの本を、とくにわたしがこどもだったころをもう一度読みたいと強く思ったのだった。

念願の本を手に取り、読みだして早々に目に留まる箇所があった。それはまえがきの部分。ケストナーが幼少期を少しだけ振り返った時に、暦は50年以上前だというが自分にとっては昨日のことなのだと思う、記憶に対する暦と自分の感覚がなぜ違うのかという疑問について語ったところ。


双方とも正しい。二通りの時間があるのだ。一つの時間は、ものさしで、コンパスで、六分儀で計ることができる。道路や地所を計るように。だが、われわれの思い出は、別の時間の計算であって、メートルや月、十年の単位やヘクタールとはなんの関係もない。忘れてしまったことは古く、忘れられないことは昨日あったことだ。ものさしは時計ではなくて、価値である。そして一番価値のあるのは、楽しいにせよ、悲しいにせよ、幼少時代である。忘れられないことを忘れるな!


時間の計り方が二通りあり、思い出が昨日のように感じるのは「価値」がものさしになっているからだと、いうケストナーの考え方に感銘を受けたのだが、一番ぐっと来たのは「一番価値のあるのは「幼少時代」だ」と言い切ったところ。

というのも、幼少期が最近の私の一つのキーワードになっていたから。

先日韓国で公開されたピクサー映画の「inside out(邦題はインサイドヘッド)」を鑑賞したとき、幼いころ過ごした時間や経験が自分のパーソナリティーになって大人になった今でもものすごく影響を与えているということをふと、感じて。

何より、私には年が近い弟が二人いるのだが、二人とも結婚する予定の彼女がいるというのを最近知って。それがきっかけで、弟たちのことや弟たちと過ごした幼少期を最近ものすごく考えるようになった。お互い大人になったけれど、ドンちゃんとも友人とも親とも違う特別な存在。そして、私の幼少期は彼らの存在なしでは成り立たず、彼らは私の人格形成にものすごい影響を与えていて、そして私も彼らにものすごい影響を与えているんだなと。


てな感じで、幼少期を掘り下げて今の自分につなげていく作業は本当に大事だと思っていた時期に、ケストナーの上記の言葉に巡り合ったわけです。自分の幼少期の大切な思い出たち、昨日のようにはさすがに感じることはできないけれど、でもものすごく身近にあることは確か。忘れずに大事にして、引き続き、今の私の原点をさがしていかねば。

そして願うことは、世界で唯一無二の存在である弟たちの幸せな未来。


最後に、せっかくなのでドレスデンで撮った写真を載せます。














↑ケストナー博物館






↑美味しかったソーセージ




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