すごく楽しい。また情熱が蘇ってきた。
陶芸の話です。大学院が冬休みに入り気持ちに余裕ができたことで、陶芸を始めたころの気持ちが戻って来ました。いつもよりも、じっくりと作品に向き合うことができるし、時間をかけて手間をかけて仕上げていくことが何よりも楽しく、あの時抱いた夢が、自分の中でもっと大きくなっているのを感じます。
ドンちゃんを脱サラさせて、自分のアシスタントにして、作陶に励みたい!って今なら思えます。
去年一年の陶芸活動は充実していたけれど、途中は大学院との両立がものすごく辛かったです。
同時に「続けること」の難しさと大切さを実感しました。好きなことを見つけることは、誰にでもできることで、それを実行することも全然難しくない、「続けること」に比べたら。
人の気持ちは毎日変化するから、好きなことへの熱量も大きい時ももあれば小さい時もある、日常の忙しさに埋もれてしまうこともある。そういった中でも、「続ける」ことが、その道で認められていくには必要不可欠の事で、それは「好きな気持ちや熱量」とは別の、自分への信頼や努力に関することなんだなーと思いました。
なので、今年も大学院との両立、が目標。作品は子供用の食器を作りたいな。友達の子供たちの名前を小さく掘って、それぞれに贈りたい。写真の急須のように白く、化学製品一切使わない釉薬で。
写真の急須は、急須を作ったら送る約束をしていた方の元へ旅立ちます。約束して1年半、ようやくできました。
さて、ここからは独り言です…
パリで悲惨な事件が起こりましたね。何とも言えない気持ちになりました。とてもスルーすることができなくて、自分なりの考えをここで書いていきます。
とりあえず、私が今現在持っている疑問は、
標的にされた「シャルリー・エブド」が掲載した問題の風刺画は、イスラム過激派たちではなく、穏健派や一般のムスリムたちにとってどの程度の物なのか、「嫌な気持ち」になるのか、もしくは、それ以上になるのか、がものすごく知りたいです。
そして何より…この事件後に、各国で湧きあがった「表現の自由」を主張する声、になんとくモヤッとしました。
もちろん、犯人は許されない。ものすごく残忍な事件だと思う。神を冒涜したから死んでもいい、という論理は私には到底理解できない。
でも、それで「表現の自由が侵された」「表現の自由を守る」と叫ぶのは、あまりにも感情的反発であって事件に対して根源的ではない、気がします。
そもそも「表現の自由」ってヨーロッパ発?普遍的なものだというけど、どこまで、何ゆえに普遍的なんだろう?
この事件を深く掘り下げるには、イスラム固有の考え方をまずは知るべきではないのだろうか?神を冒涜したら死というイスラーム法の法的根拠とかイスラーム法と西洋諸国の法制の相違とか。それを知らずに自分たちの権利である「表現の自由」を振りかざしたって、何も解決しない気がします。
今、私、ラシュディの「悪魔の詩」を読んでいたので、偶然にも今回の事件とピッタリと重なったので、この事件を無視できなかったというのもあります。有名な「悪魔の詩」事件、ラシュディはホメイニ師から死刑宣告され、日本では日本語訳した五十嵐先生が虐殺されたんですよね。文学作品と風刺画ではそもそも違うものだけれども。この事件でも、表現の自由ばかり叫ばれて、根本的な議論は行われてこなかったそうです。
以上、独り言でした。
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