社宅内を歩いていたら、ふと目に止まった、紫陽花。梅雨が過ぎ、かんかん照りの灼熱の夏の中、確かに枯れていったはずなのに、秋になって、 再び色ずいている。秋色紫陽花、と言うらしい。
よく見て観察してみたら、染まっているのは花びらの裏側だったところ。枯れて花は萎しぼみ、頭が垂れてしまったが、その裏側だったところに太陽が当たり、色が染まった、とみた。
趣のある少しだけ寂れたピンクはまさにこの時期にぴったりで、小さく感動した。そして、花びらの表が裏になり、裏は表になる変化に、人間の本質を感じた。本来、裏と表は区別できないものなのだ。
趣のある少しだけ寂れたピンクはまさにこの時期にぴったりで、小さく感動した。そして、花びらの表が裏になり、裏は表になる変化に、人間の本質を感じた。本来、裏と表は区別できないものなのだ。
映画の中で、幼い頃には疑問に思っていたことが、大人になった今、「ああ、こうゆうことだったんだ」と、理解できたこともあり、なかなか面白かった。例えば、吉原アメリカンチアガールは風俗施設の名前だったんだ、とか。告白してきた春雄に対して言った夏子の一言に母が「うわっひどっ」と言っていた訳、とか。
ただ、あの時も幼いながら、正子に対しての「夏子の気持ち」がなんなく後ろめたいものがあるんじゃないかな、という思いがあって、今回観て、やはりその通りだったんだと思った。あのときは、この後ろめたさがどういった類のものなのか、説明できる言語を持っていなかったんだけど、今ならできる。人一倍「本気の相撲を見たい」と言いながら、やはり口だけだったということに正子を通して気づく、という夏子の心情が微妙に描かれていた。
今回改めて観て、新たに発見したことは、劇中で流れる、おおたか静流が歌う「悲しくてやりきれない」という歌の良さ。(歌自体はザ・フォーク・クルセダーズがオリジナル)
胸にしみる、空のかがやき、今日も遠くながめ、涙をながす。
悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。
このやるせないモヤモヤを、だれかに告げようか。
歌自体は、底がない深い深い悲しみ、その悲しみをどうすることもできぬ虚しさ、を歌っているけれど、私はその悲しみと一緒に小さな自然も歌っていることにものすごく惹かれた。
例えば、1人で散歩している時、空がやけに青くてふと立ち止まってしまう。その青さを眺めていると、なんだかよくわからないけれど、ひたすらに悲しくなる時ってある。その青さが悲しさを呼び起こすのか、よく分からない。でも悲しい。だから、そこに身を委ねて、ただひたすらに悲しさに浸りたくなる。そうゆう経験って、たぶん、私だけじゃなくて、きっと誰にでもあると思う。みじかな自然に、感情が呼び起こされる時が。そしてそこに一体になってしまいたい時が。
そんなことも歌っている気がして、ああ、いい歌だなって思った。そうゆう経験がある人、是非聞いてみてほしい。
近くにある自然に色々な影響を受けることに気づく。青い空に悲しみを喚起されたり、秋色紫陽花に人間の本質を感じたり。
ちなみに、映画自体も良いで。何より、まわしをしめる柄本明がかっこいい!
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