色々な訳があって、今学期学部生の授業も取っています。その一つが「日本の生活文化」というもの。人文系の科目の中では、一番成績が採りやすいかな~私日本人だし~とかなり安易に考え選択したんですが…この時の私は知らなかった。かなり自分を苦しめることを。
授業の最初はまず「日本人論」の講義だったんですね。ちなみに先生は教授ではなく講師。専門は日本文学で文化ではないため、「日本人論」はアメリカ人の文化人類学者ルースベネディクトが書いた「菊と刀」を参照にしていた模様。(先生の名誉のために書いておきますが、かなり客観的に日本を見ることができるだけでもなく、韓国の事もものすごく客観的に見ることができる方)
楽勝だと思っていたのですが、ルースベネディクトの菊と刀を軸に進める「日本人論」の講義、聞くのがものすごく辛かった。聞きながら、嫌な感覚が自分の中に広がっていくのを感じ、漠然としてました。
なんでだろう?何がそんなに私を辛くするんだろう?って考えました。
文化人類学の文化相対主義という理論のせいか?菊と刀の内容のせいか?いや、おそらく同じ内容の講義でも、日本の大学で日本人に囲まれて聴いたとしたら、きっとこんなに苦しくは思わなかった。ということは、聴いている自分の環境、つまり、韓国人という外国人に囲まれて自分一人日本人と言う環境のせいなんだと、結論付けました。
自分の文化が、自分自身が真っ裸にされる感覚。でもそれが自分が頭に思い描くナイスバディ―ではなくて、改めて鏡の前で見たらお腹にお肉が付いた自分でもびっくりな身体。そんなありのままの少し醜い姿を、自分とはまったく異なる文化(身体)の人たちに見られたり、指摘される、まさにそんな感じ。「当の日本人」ひとりという環境が私が感じた嫌な感覚の原因、プラス私のなけなしの愛国心。
講義自体は日本人論を離れて、今は本題の生活、主に年中行事から日本の文化を見るという内容になっているので、苦しさはありません。
日本人論は苦しかったけれど、いい経験をしたなと思いました。ルースベネディクトが正しいのか正しくないのかは置いといて、自分は日本人だからと言って他の国の人たちよりも日本人というものを知っているわけではないということに、改めて気づけたからです。そして韓国に住んでいるからと言って韓国人を語れるわけでもないということも。自分の国の事も他の国の事も、自分自身が関心を持って学ぶ(大学で勉強するだけではなくて、自分自身の目で見たり聞いたり自分の経験をしっかりと自分の頭で整理したり)そうゆうことを得て、初めて自分は日本人を「知っている」ということになったり、韓国人論を語れるようになるんだろうなって。
この授業、人文系の学生だけかと思いきや、教養科目なので色んな学部の学生たちが履修しています。グループワークもあって、私のグループは経済学部、理工学部、新聞放送学部のメンバーから成っています。日本の生活文化の授業が「教養科目」にあるってすごくないですか?文化や日本を専攻する学生たちだけではなく、専攻関係なく学ぶことができるんです。私はすごいなと感動しました。日韓関係にとってもとても大事なことだなと。一方、日本はどうなんだろう。私の通った大学には教養科目で「韓国の文化」はなかった。確実には言えないけど、ある大学は少ないんじゃないかな。あるべきだと思う。隣国だもん、学ぶべきだと思う。
写真は関係ないんですが、鶏肉をレモンとハーブとニンイクとオリーブオイルでマリネしたもの。夜はこれを焼けばいいので、夕方までは勉強に集中できそう。グループワークの準備しよう。
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